創作物語工房 掲示板
ブログ復活したぴょん - イトウ
2008/06/21 (Sat) 17:07:44
タイトルですべてを表すことが出来ました。
これからもよろしくお願いしますですm(−−)m
イトウちゃん - 栗田 Home
2008/06/24 (Tue) 01:36:43
こんばんは。
ご報告ありがとうございます。
連載だけは書きあがってる部分を晒していく予定ですが、基本的にうちは活動停止です。
すれ違いですねー(^_^;)
6、7話 - ネコ
2008/06/17 (Tue) 22:30:44
桜楓姫譚、私も6話、7話の山の自然の情景描写がとても巧いなあと思いました。そして、7話の幻想的なシーンもまぶたの裏に浮かぶようです。続きが気になりますニャ〜(^^;
ネコさま - 栗田 Home
2008/06/18 (Wed) 07:16:36
こんにちは!
感想いただきありがとうございます!
7話の部分は書いているうちにあのようなシーンになってしまって、書いた本人もびっくりでした。
これからまだまだ続きそうな雰囲気なので、よろしければどうぞお付き合いください!
ありがとうございました!
桜楓姫譚 - アベル Home
2008/06/13 (Fri) 19:27:07
六回目まで読みました。
やっぱり栗田さんは情景描写がうまいですよね。
ブログでいろいろな方の小説を読みますが、今ひとつその世界に入れないものがあり、何故だろうと思っていました。そうなんです。情景が思い浮かばないと、入り込めないのですね。私も自戒します。はい。
アベルさま - 栗田 Home
2008/06/14 (Sat) 16:20:31
アベルさん、こんにちは。
桜楓姫譚を読んで下さりありがとうございます!
今回は長月さんの描いて下さったイラストも情景を思い描く上での大きな力になっているのではないかな、と感じます。
文章の面では自分が視覚優位なので、目に見える部分ばかり書いてしまうのですが、目に見えない雰囲気まで表現できるようになりたいな、と感じています。
アベルさんのところでも連載していた「風界の軌跡」完結ですね。おめでとうございます。また後ほど感想差し上げに伺います。
ありがとうございました!
お邪魔します - ネコ Home
2008/06/11 (Wed) 01:25:05
「屋根裏部屋のまじない師」拝読しました。
主人公のティリエちゃんが初々しいキャラクターで好感が持てました。自分の恋はやっぱり占えないのかニャ〜(^^;
すごい長編連載に挑戦されてますねー。ボチボチ読ませていただきます。また遊びにきますニャ〜
ネコさま - 栗田 Home
2008/06/12 (Thu) 10:13:38
こんにちは。
「まじない師」読んで下さりありがとうございます。
やっぱり自分のことは占えないんじゃないかな、なんて思います。占いってどうも何かを決断したりするときに外からの要素としてポンと背中を押すようなものとして感じます。だから自分で納得しちゃうのなら占う必要はないし、納得できないならいくら占っても意味がなくなってしまうから、結局自分は占えない、となるのかなぁ、なんて思いました。(むむ。自分でも書いていてよく分からない文章になってる(^_^;))
長編の方もよろしければどうぞ!
また遊びに来てくださいねー!
お久しぶりです - 鏡一郎
2008/06/03 (Tue) 23:58:54
お久しぶりです。鏡一郎です。
やっとネットの世界に復帰しました……
や、ほんとすいません。
5月12日には復活すると息巻いておきながら、
ふたを開けてみればコレでした。
今日からネットに接続できるのですが、
まだホームページは復活してません。
明日以降、復活できるんだそうです。
言い訳らしきものをブログに書いてます。
新しい土地で一人寂しいので、
アクセスとかしてくれると嬉しいです。
喜びに満ち溢れます。
ttp://nahcohs.blog111.fc2.com/
では。
鏡一郎さま - 栗田 Home
2008/06/04 (Wed) 03:12:18
こんばんは。
ホームページ復活おめでとうございます!
結構引っ越しってネットとかの通信も含めていろいろと手続きが手間だったりしますよね。
日付がとっくに変わってますので復活した様子をしっかり見させてもらいました。
仕事も忙しいと思いますが小説楽しみにしてます。
お知らせ、ありがとうございました!
一緒にだらだら、考えましょ - イトウ
2008/05/30 (Fri) 19:11:52
携帯サイトで発表されるであろう、くだらない恋愛小説を書いている人が、
「小説については何も考えていません、パソコンの前に座ったら言葉が勝手に出てくるので、それをできるだけそのまますくい取るように書いています」
と言っていてもぼくはなにも驚かず、
「ふーんやっぱりね」
と思うのですが、栗田さんがそういうことを言うとぼくは、
「ほんとに?」と思ってしまいます。「ほんとに、小説を何も考えずに書こうと思ってるの?」と。あるいは「何も考えず小説を書けるんだったら、小説を書いている人は苦労しないんじゃないの?」とも。
しかし栗田さんは「何も考えない」ということを「考えて」いるのであり、それは当たり前のことなのですが。
文体は意識して作り出すものではありませんし、意識して作ってもそれは別の誰かの文体を模倣しただけになってしまいます。
ですから文体については「よし、意識して書こう」という気持ちをそれほど働かせる必要がないのかもしれません。
ただ、文体=その人なりの表現を使って書くことである、という考えが(おそらく無意識に)栗田さんには前提としてあるのかもしれませんが、文体は文章そのものの個性を指すのではないと思います。文体とは、文章に内在されるリズムであったり(これは決してテンポのいい文章、テンポの悪い文章というものではありません)、小説内の情報の組み合わせ方がその人特有のものであったりというものではないのかしらん、とぼくは思っています。
わざと個性的な比喩にしようとすることが、文体を形作るものではありませんし、栗田さんはそこを回避するために「何も考え」ず、あえて個性的な比喩などを使用しないように心がけてらっしゃるのでしょうが、いささか、文体=表現の仕方という意識があるのではないか、と疑問を持ちました。
小説を操作する、ということも回避しようとされているのだろうと察します。その素朴さはそのまま小説に反映されているのですが、その素朴さが「どこかで見たような」ものを生んでいるのも事実だと思います。
栗田さんの小説の題材は貧困で、いつも同じようなことばかりを書いているのだけれど、何度も書くという反復によって「誰かが書いた」シーンを再演し、その再演されたものに対する素朴な書き方が栗田さんの歪みというかズレを生み出します。
しかしそのズレが生まれるには結構分量が必要であって、ふとした拍子に「あ、これは栗田さんの小説だ」というズレが出来ます。ということは、間違いなく栗田さんは「長編作家」なのだろうと思います。しかしそのズレが生じるまでは結構退屈で、作品を引っ張るストーリーのようなものも中途半端な感じだし、情報量で圧倒しているわけでもないので、ライトノベルのような読み方で読むと、間違いなく栗田さんの小説はつまらなくなります(そのライトノベルとして読んだときのつまらなさは、鏡さんが実に的確に指摘してらっしゃいますから言いません)。しかしそう誤解される(ライトノベルのようなものと誤解される)要素がたくさんあるのが事実であり、そもそもファンタジーという枠組みからしてそう思われやすいです。
ですから、ぼくは、誤解されないようにはどうすればいいのか? というのが栗田さんの最大の課題であるように思われてなりません。これは安易に風俗をスケッチしたような小説を書けばいい、ということではありませんから、難しいことです。
栗田さんの持つ素朴さは「どこかで見たような」物語、場面を生み出すのですが、そこからではないとそれを反復することは難しいし、そこからズレが出来て作品が凡庸な地平から離陸することが出来ないから、はっきりとした打開策がなく、いかに読者をズレが生じるところまで退屈させずに連れて行くか、ということも考えねばならない、課題だろうと思います。
そのズレのおもしろさはどのようなものか、ということもしっかり考えねばならないのですが、それは簡単にいうと、「どこかで見たような」ものがズレによって、急に、びっくりするぐらい気持ち悪いリアリティを生み出すからだと思います。リアルということは、それ自体でおもしろいのです。これ以上は割愛します。
続き - イトウ
2008/05/30 (Fri) 19:13:18
ぼくも同じく、「本文が長すぎます」と蹴られてしまいました(笑)
以下、上の続きです。
あと、ジョン(ほんとうはガードナーと呼ぶべきですけれど)について。
小説を書くとき小説を書く者は、自分がこれから書こうとしているものに絶対の信頼がなければなんの役に立たない消費としてのフィクションにしかなりませんよ、というのがジョンの主張なのだけれど、例えば、幽霊を例に上げて栗田さんが返事してくださった内容にもレスポンスを出したいです。うまく行くかな(^_^;)。
例えばぼくが幽霊を書くとしたら。
幽霊の存在を小説の中で書くのだからそれは幽霊が存在する、ということを信じなければならない、といえば、一気にジョンの主張は揺らいでしまいます。これは卑怯な例でしょうか。いや、そうは思いません。幽霊は小説にじゅうぶんに書かれるべきものですから。
作者は幽霊についてその存在が「いる」「いない」という明確な答えを出して書き始めるとは思えません。これは答えの出せない問題だから、その「いる」こと「いない」ことが大事なのではないし。つまりそのことについては保留しといて書き始めることになります。その小説の中で幽霊が「いる」と書かれても、それは本当に「いる」ということをあらわしているのではなく、「いる」のだろうかという問いを発信しているのです。つまり「いる」か「いない」かどうかについての、基盤としての、「いる」なのです。それがそのまま小説としての基盤となり、そこを出発点として小説は小説としての運動性によって幽霊について思考される、そのプロセスが重要です。
栗田さんは小説に書くものはすべて、作者から自然に出てきたものでなければならないような考えを持ってらっしゃるけれど、自然に出てきたものが小説の中でリアリティを持つかどうかはまた別問題なのであって、必ずそればかりが重要ではないでしょう、と思いました。
ちなみに - イトウ
2008/05/30 (Fri) 19:19:35
ちなみに栗田さんはとても忙しそうなので、このスレに対するレスは不要です。
返信してくださるのなら、喜んで読ませていただきますけれど(笑)。
ありがとう! - 栗田 Home
2008/05/31 (Sat) 23:54:44
イトウちゃん、ありがとう。
やっぱり小説について、ああでもない、こうでもないと考えを巡らせるのは楽しいです。
忙しいとか言っても、やっぱり小説について考えるのは楽しい。ついついこっちを書いてます(笑)
最近の僕が考えている小説の書き方ですが、小説そのものについて考えるのは小説の執筆から離れている時であって、執筆をしている時は、からだの感覚で書いていく、そんな感じです。
僕の場合、実質的に時間を費やしてきた量としては小説よりも音楽の方が長かった(小説はやっと三年目だから)ので、音楽との類似点などをもってきた方が分かりやすいので、小説を考えずに書く、というのも音楽での良い演奏をしている時との状態との類似としてとらえています。
演奏をする時に、次の音をどう弾くか、などと技術的なことを気にしながら演奏していると、それはとてもつまらない演奏になります。もちろん、精密に曲の構成などを考え、それに適した演奏についての計画を組み上げて行き、忠実にその計画を実現することで、とてもすばらしい演奏をする演奏家もいますが、僕の場合はむしろ何も考えずに、指が自動的に動き、演奏する曲に没入しないと音楽にならないタイプでした。(もちろん、指が自動で動くようになるまでしっかり練習しないと、完全に曲が崩壊してしまい、だめなわけです)
ここまで書いて、普通の演奏もそうですが即興演奏のほうがたとえとしてはいいかも、と思いました。即興のセッションではそれまで演奏してきた曲の雰囲気や、周りの感じを受け取りながら、その場で内側から沸き上がってくる音を表現していきます。その時は、意識上の緻密な計算からは離れた感覚で、出てきた音も、やはり考えるというよりも、自分自身の内面からぽんと出てきたもの、という印象があります。このようなセッションで、下手に「こうしてやろう」という思考が介在すると、とたんに音が変わってしまい、演奏のおもしろみもなくなってしまうようです。
小説の執筆もこの即興セッション・アドリブなどと同じようにとらえて、執筆時にはできるだけ思考を介在させない、からだの感覚によるものを目指していました。もちろん、精密な思考の積み重ねによって成り立つ小説世界もすばらしいのですが、僕の場合はこれまでのところ、下手な思考は停止して埋没型のほうがおもしろいものになる、そんな印象があるので、そちらのスタイルを重点的に探っていこうと今のところ思ってます。
かなり大きな目標なので、そんなの絶対に無理っ! と、自分でも一瞬感じるようなところが余計におもしろく、それこそ執筆というものに一生をかけてもいいんじゃないか、と思わせるところです。
>いささか、文体=表現の仕方という意識があるのではないか、と疑問を持ちました。
指摘されて、ああ、そうだなと思いました。文体に対する捉え方が、狭く浅かったです。
まさに指摘された通りで、文体というよりも表現の仕方での個性的な比喩を回避する、という部分ではなかったかな、と感じました。
>ですから、ぼくは、誤解されないようにはどうすればいいのか? というのが栗田さんの最大の課題であるように思われてなりません。
まさにイトウちゃんの指摘された通りです。
題材の貧弱さは僕自身の貧困な要素によるもので、これは同時に今現在流通しているライトノベルとして読まれる傾向へとつながっているようです。
今流通しているようなライトノベルを自分が書けるか、ということを考えて見ると、そんなことは全然無理で(2006年ぐらいに試みて、目も当てられない結果になってますし)一部のお気に入りの作家さん以外は読むことも大変なジャンルになっています。
いわゆるライトノベルとして書くことはあまり考えないようにしています。作品の雰囲気としても「ライトノベルではないぞ」という感じが読んだ瞬間に読者にも伝わるようでないと、作品と読者のミスマッチが生じて、読んだ人にもおもしろくないものになってしまいそうです。
そのあたりをどんなふうに実現していくか、試行錯誤を繰り返していく中で何かつかみとっていこうと思います。
ジョン・ガードナーの話とかについても書きたいのですが、長くなってきたので今日は一旦これぐらいで。
また続き、話しましょう。やっぱりイトウちゃんと小説談義するのは勉強になるし楽しいです。
ああ、 - イトウ
2008/06/01 (Sun) 16:16:55
>小説そのものについて考えるのは小説の執筆から離れている時であって、執筆をしている時は、からだの感覚で書いていく、そんな感じです。
ああ、そういうことですか! なーる!
やっと栗田さんの考えていることの、ちょっとした部分が、わかりました(もしくは、わかったような気になりました笑)。
すばらしい返信ありがとっ。感動しました。
そして、とてもおもしろく読ませていただきました(^_^)
読みましたよー - ほうきん
2008/05/31 (Sat) 09:42:15
『おうふうきたん』(漢字難しくて変換せず)、二話目まで読みましたよー。
これを無料で読んでいいのかッ!? ちゅーのが私の偽らざる第一の感想です。
いやはや、栗田さん凄まじく技量がアップしてませんか?
それとも私に多少は読解力が付いてきて、ようやく栗田さんの力量が分かるようになってきただけか。
サワネのケレンミのない魅力的なキャラ、引き込まれる冒頭、豊かな描写。
慌てず騒がず、まあお茶でも飲んでいきなさいよ、と言われてお茶飲んだら、このお茶ウメー! って感じです。
自分でも何言ってんだかよく分かりませんが。
コラボ企画ってのも羨ましい。
長月さんのサワネちゃんは可愛いし、一話目の挿絵も小説のイメージを膨らませてくれます。
続き、ホントに楽しみにしております。
ほうきんさま - 栗田 Home
2008/06/01 (Sun) 00:04:35
こんばんは。
桜楓姫譚、読んで下さりありがとうございます。
技量が向上しているかは分からないですが、この作品に関しては書くスピードがずいぶん上がっている印象です。イメージがたくさん出てくるので、その波に乗ってしまっている感覚です。いままで避けてきた和風ファンタジーというのが、意外と肌に合っていた、というのもあるのかもしれません。
長月さんがイラスト描いて下さってるのは本当に僕も感謝で、足を向けて寝られない状態です。特にサワネのイラストは素敵で、本文中にもまだ描写してなかったりしますが、右目の眼尻にある泣きぼくろがちゃんと描かれているところがポイントです(笑)
ずいぶん先まで書き進んでますので、そこまではちゃんと連載続けることができると思います。続きもどうぞよろしければ読んで下さいね。
ありがとうございました!
イトウちゃん - 栗田 Home
2008/05/27 (Tue) 03:00:07
こんばんはー。
お返事遅くなりました。
ちょっと立て込み状態なもので(^_^;)
毎回ストレートに感想くれて、すごく嬉しいです。今回もありがとう〜。
お返事いろいろと書きたいのですが、もう午前三時だよ(T-T)
というわけで、明日以降少しずつきちんと書かせていただきますね。もうちょっと待ってねー。
クリちゃん - イトウ
2008/05/27 (Tue) 16:45:11
急がなくても、気長にやってくださって大丈夫です。
こちら、急いでいませんので(笑)
最近やたらと仕事場からネットするイトウでした。
イトウちゃん - 栗田 Home
2008/05/30 (Fri) 01:03:13
イトウちゃん、改めましてありがとう!
これまでと比べ、ちょっと筆が早く進み過ぎてびっくりしています。そこに文章が小説のある種の模範解答のよう、というのもびっくりで、二度びっくりです。
綿密に考え、きれいに文章を整えるというよりも、直観的に出てきた言葉をさくさくと並べた印象があるので、かなり次から次へと進んでいる雰囲気があります。そこに筆が早く進んで行った理由があるのかな、と感じたのですが、それが小説の模範解答に近づいている、という印象をもたれたことに、とても不思議な感じがしました。
そのため、実際はかなり戸惑っています。全く考えてなかった「模範解答」へ近づいているとは、一体これはどういうことかな、というところです。
執筆にあたっては「何も考えない」が今回のコンセプトというか姿勢の一つにあります。まぁ、実際には書くという行為自体が考えずに行えるものではないのですが、意図的に文体を構築することや言葉や表現を捻り出すようなことを極力排除して書いている感じです。そのため、お行儀のよい文章にすることは全く念頭にはなくて、むしろ文章としては脱線した変なものに行き着くのでは、と思っていたのですが、それが逆にお行儀のよい文章へと落ち着いてしまっている、という現実をどのようにとらえればいいのか。
うーん、分かりません(笑)
ここで、「さあ、今の文章はお行儀がいいからもっと崩すぞっ!」と意気込んでみても、意図的におかしなものになってしまうように感じます。なので、当初の姿勢を維持するためにも、そのようにわざと崩すつもりはないのですが、文章としてのおもしろみを十分に味わえるものになっているかと言うと、まだ突き詰められきれてないところが多々あるように感じています。イメージとしてあふれ出てくるものを、いかに的確に文章とするのか、という課題を感じてます。
理想としてはもっとおもしろい表現があるはず、という直感はあるのですが、今のところ出てくるのはこの程度が限度、という感じでしょうか。なんと表現すればいいのかよく分からないですが、目的地は見えてるのに川の流れが渡れなくて、川の手前の河原にキャンプを張ってしまっているような感じです。ちょっと残念な感じもします。
それでも最終目的地は今の文章のまだまだ先なので、この文体に安住するつもりはないので、まだまだ修行不足だな、と感じます。基礎訓練が足りないようなので、もう少しトレーニングも増やさないと駄目かなぁ……。
単純で密度の濃い文章を気負わず、自然に書けるように、が今のところの目標です。
指摘を受けて読み直してみると、確かにサワネの心のなかの独り言は全体を薄くしている、と思いました。確かに削っても全然問題ないです。というか、むしろない方がすっきりする。下手な重複になっていた印象があります。早速この部分は修正しようと思って、先日の更新時に削ってみました。シンプルになってよかったと思います。指摘、ありがとうございました。
冒頭のパターンについて、何も考えてなかったりします。この作品を書きはじめたきっかけは、山を歩いてた時に、この話の一番最初のイメージとして薬草採りの少女のイメージが浮かびました。そこがスタート地点だったのですが、そのまま山を歩いていると、向こう尾根が見えました。その時、尾根の中腹に人が倒れてるイメージが浮かびました。なので、その浮かんだものを書いただけ、というのが本当のところです。ただ、確かにべたな王道パターンです。……根っからパターンに毒され過ぎかなぁ、と感じました。でも、出会いを盛り上げるつもりは全くなかったのです。「おや、人が転がってるよ、拾って帰ろう」というのが冒頭のイメージでしたので。さらに、この拾った男の子についても、これからどうなるか全く考えてなかったりします。今のところ書いた枚数は50枚を越えましたが、果たしてこの男の子、ちゃんと助かるかどうかも分かりません(まだそこまで書き進んでないもので)。ひょっとすると死んじゃうかも、そんな予感が作者にも付きまとってビクビクしてるのが本当のところです。多分、お話の大切なところを担うんじゃないかとは感じているのですが、それが生きていてなのか、死んでしまってなのか、分からないのです。
こうして浮かんできたイメージと流れに対しては自分でもどう対応できるのか分かりませんので、定形外れでおもしろいイメージが浮かんでくるのを願うばかりです。
イトウちゃん - 栗田 Home
2008/05/30 (Fri) 01:04:18
長い! と蹴られてしまったので、分割しました。
続きです。
> これくらいの密度で延々と語られれば「ミクちゃん」のお話も途中ダレることなく付き進んだのでは? とも思います。
かなりダレてます。
密度の濃い文章がすっと出てくる状態に近づけようとしてるのですが、かなり意図的な操作が入り込んでしまってきてるようで、そこから脱却する必要を感じます。
一旦、全体を再構成する方向で文章を試行錯誤中です。
さて、ガードナーの言葉についてですが、
>「もし作者がそれを適当にでっち上げているもの」も小説全体によって支えられるものになりうるのではないか、ということ。
ここが全くイトウちゃんの考えていることと、ガードナーの言葉の重なる部分として僕には感じられるのです。
>小説全体によって適当にでっち上げたものが<それなしではすまない>ものになれば、それはもう適当にでっち上げた物ではなく
この引用した箇所の最後の方、「それはもう適当にでっち上げた物ではなく」という時点で、それは作者にとっても読者にとっても「適当にでっち上げているもの」ではなくなっている、ということかと思いました。なので、ガードナーの言葉にあるのは、作者が信じられないものを読者に出すな、ということだと僕は感じました。ちゃんと「でっちあげ」じゃない必然性のあるものを作品に書きましょう、ということだと感じてます。
少なくとも「でっちあげる」行為はとても意図が伴ったもので、小説そのものがその存在を<それなしではすまない>状態にもって行けてるとすると、そこには作家のつまらない意図を越えた小説の自律性のようなものが作用しているように僕は感じるのです。はたからみると「でっちあげられたもの」も結局は作者にとっては自然で、執筆の過程で文字として作品に現れた時点では「でっちあげられたもの」も作家にとっては小説に内包されたものとして、すでに信じるに耐え得るリアリティが伴っている、そんな印象があります。
考えに考えたうえでぽろっとすばらしい表現が、前後の文章とは何の脈絡もないような形で出てくることがあると思います。このような思考の積み重ねの後に出てくる直感というか、意識の拡大というか、跳躍や飛躍からつながっている表現も、自然に出てくることのひとつではないかと僕は感じています。
そのような飛躍も含めて、小説世界は作家そのものから自然に出てくるもので構成されていないと、本当の意味でおもしろくないのでは、僕はそのように最近感じています。
読んだっぷー - イトウ
2008/05/25 (Sun) 13:15:20
第一回の桜楓姫譚、読んだっちゃ。
おひさしぶりぶりー栗田さん。最近小説読み漁りすぎてぜんぜんかけていないイトウです。うえ。
なんというか今までの栗田さんの小説を洗練されていけばああなっていうくんだろうなあという漠然として考えを抱いていたのが、ついに実現され始めている、という感じ。
まるである種の小説の模範解答のような!
しかしここまで綺麗に書かれていますともうこれ以上はどうしようもような感じ。行き詰っている感じも同時に感じます。
流麗で読みやすい文章、ライトノベル某研究所でいうと「適切な風景描写の量」であろう分量で書かれ、主人公の格好に過不足なく触れつつ、少女がどのような生活を送っているか、また、今何をしているかを短い中に読者に負荷をかけることなく書き出してしまう筆の確かさ。
栗田さんの小説は描写をいちいち頭の中で映像化しようと思ってその明確さのあまり全然想像できないのですが(褒めてます)、それが「ここまで来たかぁ」という。
しかしこのお話の冒頭のパターンは、一時期ライトノベル・ファンタジー小説を読み漁ったわたくしにはどうしてもどこかで見たような感じがつきまといます。しかも男の子の登場! 助けられる少女! 栗田さんの文章でなければ読むのをやめていました。
とても筆は達者なんですが、主人公の心情描写はあまりにもステレオタイプなのでバッサリ切っても全然違和感ないと思います。
心情描写が全体の情報量を薄くしてしまっていて……。
心情描写は物語を停滞させるんですよね。というか最近のドラマはほとんど物語の「停滞」によって作られているのですが。停滞というのはあの恋が成熟しそうだけどオババの邪魔が入って今回は失敗、今度こそ……。というようなもの。
その停滞を主軸として作られるロミオとジュリエットはそこを引き伸ばしつつしかし読者をあきさせないようにさまざまな試みが挿入されています。
男の子の出会いの場面を盛り上げようとするのはすばらしいと思いますが、そこはもっともっと情報を圧縮して書かなければただどこかで見た光景が引き伸ばされつつ美しいとされる描写が加味されている状態なだけ、ということになっています。
別にその停滞を楽しむための小説でもないしかといってストーリーを純粋に楽しんで行けば楽しめるものでもなく、読者は宙ぶらりんの状態で読むことを強要されるのですが、どこで楽しめば良いのかわからないがとりあえず読む進められてしまう、ということが栗田さんの小説にあって、そこは凄い、と思います。
>露がついた芽吹いたばかりの緑を足元にみつけ、少女は立ち止まった。強い風でよじれた低木の間に、ナビゴケの丸く包まった芽がいくつか顔をのぞかせている。熱さまし、胃腸薬、そして湿布にすれば傷薬にもなった。かがむようにして赤く色づいた芽を半分ほど手早く摘むと、小さな布に折り畳んだ。腰の布袋にそっとしまい、再び歩きだす。
という非常にすばらしい部分があるのですが、全編、このような濃い密度を持ってして書かれた方がおもしろくなるのでは? と思います。そこに主人公の心情が挟まれると文章の流れは断ち切られてしまい情報もペラペラになってしまうのでは。
これくらいの密度で延々と語られれば「ミクちゃん」のお話も途中ダレることなく付き進んだのでは? とも思います。
なんだか今回は辛口めにいいましたが、こーんな意地悪な物言いに惑わされぬよう、栗田さんには書き続けていただきたいです。
(自分のこの文章読み直していないから誤字とかあるだろうけど気にしないでね。日本語変なところも、気にしちゃ駄目よ!笑 小説以外の文章ってなんかぼくすごく弛緩した感じになってしまう)
追記 ジョン・ガードナーの言葉について - イトウ
2008/05/26 (Mon) 18:45:00
タイトルの通り、アベルさん(残念ながらぼくはこの方とこの掲示板でお互いの書き込みを見るような関係でしかないけれど)が栗田さんに紹介された、ご自身のブログに掲載したジョン・ガードナーの言葉についてなんですが、それについて追記として書かせていただきます。
この書き込みだけを見られる方に対してそのジョンの言葉を掲載しないのは不親切なので、アベルさんのブログからコピペさせていただきます。お許しください。
とりあえず先に言いますと、この書き込みはとても長くなるでしょうね!(笑) 栗さんごめっ。
≪もし小説の中の言葉が作者の無神経さや不注意さや感傷なんかによって不鮮明になっていたら、その作品は取り返しのつかないハンディキャップ背負うことになる。
それよりもまだ悪いこと、どんな代価を払ってでも回避しなくてはならないことがある。それはもしその言葉や感情が心から自然に出てきたものでなかったなら、もし作者がそれを適当にでっち上げているものだったなら、作者自身が特に関心も持たず、また信じてもいないことを書いているとしたら、読者だってそんなものをまともに読む気にはならない、という事である。≫
ぼくはこういう健全すぎる(笑)一般論に疑問を抱きます。
話は変わりますが――でもこれからする話にはこれを読んでくださらないとわかりにくくなるので、面倒くさがらずにぜひ読んでくださいネ――作家保坂和志と画家古谷利裕の対談で、うろ覚えで申し訳ないのですが、保坂氏がだいたいこのようなことを言っていました。
「例えば小説に東京タワーを出すとすると、そこで東京タワーが実際に存在するという事実性はひとまず放置され、その東京タワーという存在は小説全体によって支えられるものである」
たぶん、こんな感じ。それに対し古谷氏が日記で、「保坂さんの言葉を聞いて、小説世界ですべてが閉じられているように思われた方がいらっしゃったかもしれませんが、それは違って、東京タワーが実際にあるかどうかという東京タワーの存在は、小説世界によって厚みがもたらされ、成立するから、東京タワーがその土地にある、ということは小説全体によって<それなしではすまない>という存在が確立される」
残念ながら古谷氏のこの言葉もぼくはうろ覚えで書いているから――ごめんなさい(笑)――、歪曲して理解しているフシがあるかもしれないけど、だいだいこんな感じだったと思う。
ぼくも小説を書いていて、このような小説においての登場するものの事実性について考えていたのだけど、保坂氏のその話を聞いて自分が考えようとしていたことの大部分を言われてしまった、と思いました。
だからジョンの「もし作者がそれを適当にでっち上げているもの」も小説全体によって支えられるものになりうるのではないか、ということ。小説全体によって適当にでっち上げたものが<それなしではすまない>ものになれば、それはもう適当にでっち上げた物ではなく単にフィクションとして終わる嘘物語の、カギ括弧としての「小説」から、フィクション・ノンフィクションを超える小説、となるのではないか、と思います。
そこに作者が自分が書くことを信じている、ということは無意味なものではないか、とも思います。作者は小説に自分がよく知っていて信じているものを書くとしても、小説の中にそれを登場させるなら、その存在自体にゆすぶりをかける――つまり自分が信じている信じていないではなくそれについて考えなければならなくて、この場合の「信じる」は盲目になる、それによって考えなくなってしまうという危険性を多いに孕んでいるものでは、と指摘したいです。
ただ、「作者自身が特に関心を持たず」という点には多いに賛同いたします。
「……(作者の不注意や安易な感傷に対して)それよりもまだ悪いこと、どんな代価を払ってでも回避しなくてはならないことがある。それはもしその言葉や感情が心から自然に出てきたものでなかったなら」
それはおかしいのでは。というより、ジョンは一般論と擦り合わせて小説について考える、という失態を犯してしまっているのではないか? と問いたい。
小説を書くとき、「言葉や感情が自然に出」てきたものでならない、というのは違うと思います。「自然に出」てこないから小説家は小説について考えなければならないのであり、自然に出てきた言葉が小説の中でリアリティを発揮する、というのは違って、そんな能天気な書き方でリアリティのある(リアルなものはそれ自体でおもしろいものなんです)小説がかけないから、小説を書くのに苦労するのではないでしょうか、と。